南 博 HIROSHI MINAMIのブログ

森羅万象/禁煙日記

禁煙日記21

禁煙をしてからコーヒーを飲まなくなった。喫煙していた頃は、毎朝起き抜けにまず一本煙草を口にくわえてから、コーヒー豆を砕くところから始め、丁重にその豆へ湯を注ぐのが習慣となっていた。そして濃い目の三杯を三四本の煙草と共に嗜むのが私の朝の迎え方であった。それで一日の頭のめぐらせ方の方向が見えていた。しかし禁煙後は、禅の本に倣い、朝起きてから端坐しながら深くゆっくりと深呼吸をすることを日課としている。窓を静かに開けて、朝の空気を感じながら一日を始める。街中の寓居でもかすかに聞こえる虫の声、風の音、雨音などと共に、小さな庭の緑を半眼で見つめる。自然と、コーヒーを飲む習慣が私の生活から離れていった。どこか無意識に、コーヒーを味わうと、突然喫煙欲求がぶり返すのではないかという恐れもあったと思う。

 

今朝も、朝の空気を吸ってから一旦気持を整えた。すると妻が、久しぶりにコーヒーでも飲んでみないかと聞いてきた。妻の言うことには何かいつも意味があるので、味わってみることにする。重複するが味覚が日に日に冴えてきているので、久しぶりに飲むコーヒーの味わいも、また早朝と言うこともあり格別だった。このような複雑な苦みの重層が口腔内をなめらかにする液体であったことを久しぶり思い出す。この苦みの中には沢山の想い出が詰まっている。それはやはり煙と共にあるもので、場所も地球規模で様々だ。ウイーン、ボストン、ニューヨーク、パリ、コペンハーゲンレイキャビックミュンヘン、フィレンツエ、様々なところでコーヒーを煙草と共に味わってきた。コーヒーの味と同じく苦い想い出の時もあれば、楽しく会話に花が咲いたときもあった。そこにはいつも灰皿がそばにあることが必定であった。国々により味わいの異なる煙草とコーヒーは、その国々の街、景観や言葉に、とても順応していた記憶がある。しかしそれはある種の錯覚であったと禁煙した今だから思える。タバコを吸わずとも、異国情緒は心で感じればよろしい。そして煙草に火を付けあった地球の裏の友人達。この儀式を経ると、人種を越えて互いの間柄が近づいたことも確かだ。異国にての電車移動、車移動にも、私にとって喫煙は、景色の流れと共に有る所作の一部だった。今はこの所作も禁煙車の普及で不自由になった。世の流れに唯々諾々と自分の考え無しに迎合したくはないが、喫煙により認知症、肺の病になるのはやはりいただけない。肺気腫は最も避けたいタバコの害が及ぼす病気である。病になることは非喫煙者でも避けることはできない。生老病死は必定である。ならばその課程を自分でアレンジすることは可能なのではないだろうか。いずれにせよ、無意識に日々病を早める行いを続けるほど、私は自己否定が強いわけでは無い。これらの思いと共に、コーヒーを味わうことのみを楽しむことができるようになった自分自身に小さな快癒を感じた。煙と共に思い出されるこれらの想い出を大切にして、それは過去のことと心の中に納め、私はこれから新しくなろう。

 

朝から物事を淡々とこなす。少しずつでよい。少量のカフェインにもある意味多分な覚醒作用があることが分かる。確かに身体がシャキリとする。これを喫煙時に三杯飲んでいたとは、自分自身に恐れ入る。おそらく身体の全てがニコチンにて麻痺をしていた証拠であろう。そして身体を麻痺させていなければ、続けられなかったことの何と多かったことか。頭が混乱して当たり前である。今は無理をせず、できることをできるだけ行動するという、至極当たり前の自分に変化してきている。休むべき時には躊躇をせずに充分休めば良い。

 

試しに、その休み時間に、自分の内をじっと見つめて、本当に喫煙欲が無くなったのか、静かに確かめてみることにした。これも朝の短い時間のうちに行う、自らが編み出した有効な禁煙の方法だと思っている。たとえば今、煙草が一本私の目の前にあったら手を出すだろうか。出さないと思う。手に取ることはあっても、それに火を付けるところまではいかないだろう。昨日のことだが、机まわりを整理していたら、名刺入れに入りきらない名刺を煙草の空箱にまとめていたもの発見した。過去の残骸としか思えなかった。私の好だったその銘柄は、濃いグリーンの直線を描いたもので、その鋭角なデザインが、まがまがしく私の視界に飛び込んできた。その箱を触ることも恐ろしく思ったが、このデザインに魅惑されて買い続けてきた自分の記憶も辿ることができた。それらの思いと共に、即座に中の名刺を抜き取って、煙草の箱を見つめながらゆっくりと手の平で握りつぶした。そう、久しぶりにこの手の感触を思い出した。喫煙時に空になった箱を何万回かこのようにして手の平でつぶし、ゴミ箱に入れてきた。今回は、喫煙という行いを省いて、煙草の空箱を手の平でつぶした。また一つ自分の中のよけいなモノがそぎ落とされたような身軽さを感じた。

 

ゴミ箱に捨てた後の、ある意味さっぱりとした、最後の憑き物が落ちたような感覚は、文字では描写しがたいが、生活や記憶の中に細々と隠れたこのような喫煙にまつわる物が身の回りからそぎ落とされてゆくことが、気持の軽さに繋がっていく。タバコの箱と共に机の引き出しの奥から出てきた使い古しの百円ライター二本もゆっくりとゴミ箱に持っていった。災害時に役立つのではという気持が横やりを入れたが、自分で自分を無視し、ゴミ袋をゴミ集積所に持っていき、部屋に戻った。簡潔な部屋と環境。なかなかよいものだ。今更禅の教えを生活に取り込むなど遅いどころか間に合わないのではと感じたりするが、一休宗純が好きなのだから、素直に自分自身を、それに倣うよう生活することは悪いことではない。やらぬよりやった方がまだ良いという結論にて、まずは気分から入るため、大きな紙片に大きな字で「本来無一物無一物中無尽蔵」と丁寧に書いてから、いつも目にする居間の一角に貼り付けた。行動にも繋げていくことが大切だと思いたい。「脚下照顧」という紙片も玄関に張った。日々の所作をこちらの方に意識を向け気持を整えてゆけば良い。何よりもタダであるし、家の中が整うし、所作も簡潔になっていくであろう。少しずつ実践してゆけば良い。音楽と同じだ。続けていくことが大切だ。煙だらけの部屋などよりマシであることはいうまでもない。

 

後悔先に立たず。今から実践するしかない。今が一番新しい。

 

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